鏡の前で、友禅の中振袖を羽織った総悟は渋い顔をして立っていた。
「……何だかねェ」
総悟が土方と外出する――。そのことを知った店主が、今朝嬉々として総悟の部屋を訪れてその中振袖を置いていった。 それは紺地に色とりどりの花や鳥が描かれた見事な代物だったが、どこかうるさい気がした。
実はその中振袖の寸法に合わせた薄紅色の長襦袢も渡されたのだが、夜を感じさせるその雰囲気に総悟は受け取ってすぐに襦袢を箪笥の中にしまいこんでしまった。 土方の隣を歩くのに、ふさわしくないと感じてしまったからだ。
「もう少し、落ち着いた感じの着物がいい」
今日、幾度も交わされたこのやり取りに、女中が苦笑いを浮かべる。
「副長さんは、普段どんな色の着物をお召しになるんでしょうね」
「それがわかればこんなに悩まねぇんですけどね……」
総悟が土方に外出先の希望を文で知らせた二日後、土方の部下が返事を持ってきた。 平素と変わらず余計な説明は一切なく、そこには外出の日取りと行き先が記されているのみだった。
「少し、休憩しませんか」
「そうする」
総悟の希望通り、梅狩りに出かけようと土方が提案してきた日付は明日である。 今日は明日着ていく着物を合わせるため、女中に手伝ってもらい着物やら帯やらを桐箪笥から引っ張り出しているだけだ。
客である土方の隣を歩くのだから、その雰囲気に合った着物を纏いたいと総悟は考えた。 明日、土方は仕事用の格好ではなく私服で外出するはずだ。しかし土方は真選組の隊服以外を身につけてこの部屋を訪れたことがない。 普段どのような装いでどのような雰囲気なのか、正直なところ何もわからなかった。
隊服のジャケットを脱ぎ、黒いベスト姿で白いシャツを腕まくりして部屋の隅で筆を走らせる土方の姿を総悟は思い浮かべた。 女中が運んできてくれた茶をすすりながら、黒髪の、目鼻立ちが整った土方にはやはり濃い色合いが似合うと総悟は思った。 濃い紅色、灰色、紫、紺色、黒……様々な色が浮かぶ。湯呑みを置いて姿見と着物の山に目をやると、ふと部屋の端に置かれたとある着物に気が付いた。
それは薄い茶色がかった無地の紬だった。淡い色でありながらも、どこか寒色を思わせるような艶がある。 何とも言えない風合いが気に入り、総悟は姿見の前でその着物を羽織った。鏡に映った自分の立ち姿を見て素直に良い、と総悟は直感した。
「……これにしようかねィ」
「まぁ、色白の総悟さんによくお似合いで。無地だと味気ないと思いましたけど、総悟さんの雰囲気にも合っていますね」
梅狩りに行くこともあって、華やかな装いを前提に着物を選んでいたが、なにやらごちゃごちゃしていてしっくりこなかった。 どことなく、土方もすっきりした着物を好むような気がする――。まっさらな長襦袢を用意し、帯は淡い空色を選んだ。 履き物は逆に柄物が良いと考え、蝶柄の鼻緒の塗り下駄を履いていくことに決めた。 梅の季節はまだ薄ら寒いから、細かな千鳥格子の柄の羽織も準備した。
あれだけ悩んでいたというのに、一度何を着ていくのかを決めてしまうと心が楽になった。
女中に再び入れてもらった茶をすすり、先日土方からもらった菓子をひとりで頬張っていると、「総悟」と襖越しに店主の声がした。
「へぃ」
すぐに襖を開けると、そこにはいつになく機嫌の良さそうな店主が立っていた。両手には木箱を抱えている。
「こちらの準備もしっかりしておくように」
店主がごとり、と木箱を総悟の目の前に置く。
「明日は、あまり食べ物を口にしないように気を付けるんだよ」
そう言い残すと、店主は去っていった。
「……」
総悟とて、仕込みを終えた陰間である。 店主が抱えていた箱の中に入っているものや、なぜ明日は食べ物を口にするなとわざわざ忠告しにきたのか、察することはできる。 総悟は木箱を抱えて部屋の奥に持っていくと、その蓋を開けた。
そこには、香油と思わしき小さな壺や白い布に包まれた玩具の類がいくつか収められていた。
木箱の蓋を手に抱えたまま、総悟は小さくため息をつく。土方は、男は抱かないと言った。
現に、土方はこの部屋を仕事のために使っているだけである。 同郷の出身ということと、多少の憐れみも感じたのだろう、たまたま総悟ごと部屋を借りているだけなのだ。二人きりになってもそのような雰囲気になることなどは一切ない。 幾度か、店の他の陰間が土方に色目を使っているのを見かけたことがあるが、土方は相手にしていなかった。
総悟はなんの気もなしに木箱の中にある小瓶の蓋を開ける。そこには蜜色をした液体が入っていた。甘い匂いが手元から香ってくる。 地球のものより、天人製のものの方が効きが抜群にいい――。店に来たばかりの頃、店の兄さん連中や店主が言っていたことだ。
この甘ったるい香りをかぐと、どうしても兄さん連中に慣らされた時のことを思い出してしまう。 媚薬と称され口に含まされた蜜の味と、仕込み役の指を受け入れるときのあの圧迫感。いつかは犯されるその時のことを考えると、複雑な気持ちになるのは確かだ。
土方は確かに男は抱かないと言った。きっとそれは、女は抱くということなのだろう。 女人の相手をする土方も、香油や道具を使うのだろうか。
筆をサラサラと動かし書類仕事をこなしていく土方の手は、その時どんな風に動くのだろう。 人同士で交わるというのは、本当に気持ちの良いものなのだろうか。
――そんなことを考えたところで何にもならない。総悟は大きく息を吸って呼吸を整えると、小瓶の蓋を閉めて木箱を部屋の隅に置いた。
◇
翌朝、総悟の思い浮かべていたとおり、土方は濡羽色の長着姿で現れた。もちろん帯刀している。
無地の着物を選んでよかった、と総悟は思った。外で土方の隣を歩く時に、周りに溶け込めそうな気がする。髪の毛は女中にかんざしで簡単にまとめてもらった。
「車、近くに付けてある」
いつもは土方を見送るだけの店の出入り口を一緒に跨ぎ、総悟は久々に外の世界に出た。
店の裏門から外に出ると、そこには青黒い車が一台止まっていた。
「車に乗るの、久しぶりでさァ」
今勤めている茶屋に自ら望んで売られた時、総悟は初めて車に乗った。数時間をかけて、武州から江戸まで移動したことは今でも覚えている。
「ほらよ」
土方が先に車の助手席のドアを開けて、総悟の方を向く。
「ありがとうございます」
待たせてはいけないと思い、総悟はすぐに車に乗り込んだ。総悟がシートに収まったのを見届けると、土方が静かに車の扉を閉める。 自らも運転席に乗り込むと、エンジンをかけた。
「ここから本門寺までは、四、五十分ってとこだろうな」
助手席の総悟が慣れない手つきで慎重にシートベルトを締めるのを見届けた土方は、サイドブレーキを下げてアクセルを踏んだ。
しばらく車を走らせ、二人が到着したのは寺に併設されている梅園だった。 駐車場に車を止めると、まず土方が降車し総悟の座る助手席のドアを開ける。 総悟のシートベルトを外すのを手伝ってやった土方の手が、そのまま総悟の目の前に差し出される。
「……?」
土方の大きな手を凝視し、ピクリとも動かない総悟に痺れを切らしたのか土方が総悟の腕を取った。
「行くぞ」
そのまま節くれだった手が総悟の手を取り、車から引き下ろした。
「あ、」
総悟の手を引く土方の手は、大きく温かみがあった。こうして誰かに手を引かれるのは、久しぶりだ。 幼い頃、よく手を繋いで一緒に歩いていくれた姉の細い指の感触を思い出し、総悟は隣を歩く土方の横顔をじっと見つめた。
◇
「んー、美味ェ……」
園内にある休憩所で団子を頬張りながら茶をすする総悟の耳に、うぐいすの鳴き声が届いた。
「梅狩りに来たのか、団子食いに来たのか、どっちがわかんねェな」
隣で呆れたように土方が笑う。
「団子食いながら梅を見るなんて初めてでさァ。なかなかいいもんですねェ」
陰間茶屋の中で一日の大半を過ごす総悟にとって、梅園の中のすべての光景が新鮮に映った。 今日は平日なので、人はまばらだ。 しかし、若い男女や高齢者の夫婦、子ども連れの家族らが談笑しながら園内を散歩している姿を見ているだけで何だか違う世界にいるような気分になる。
園内に咲いた梅の花は美しいの一言だった。 武州でも四季の花々が咲いていたはずだが、今日のようにじっくりと花を見ることなどなかった。
「土方さんは、よくここに来るんで?」
隣で梅を見上げていた土方に、総悟がそれとなく問いかける。
「いや、初めて来た」
てっきり、幾度か来たことがあるのかと思っていた。
「土方さん、休みの日は何をしてるんで?」
土方のような幕府の人間が普段どのような生活を送っているのか、総悟には想像することすら難しい。 侍というのがどのような暮らしをしているのか、総悟は少し気になっていた。 陰間茶屋の一室で書き仕事をしている土方は、職場の話をしてくれることは多いが自分自身について話すことはほとんどない。
「最近は仕事が立て込んでたから休みは取れてなかったけどな……」
やっぱり、いつもと変わらず忙しいのか。今日も忙しいのにわざわざ時間を作ってくれたのだろう。
「まぁ定食屋で飯食ったり、映画とかサウナとか行ったり……大したことはしてねェな」
「映画とかサウナとか……」
江戸にはやはり様々な娯楽があるのだと総悟は思った。
「……こうして、梅を見に来るってのもいいもんだな。俺も江戸にこんないいところがあるって知らなかったよ」
いつも煙草を吸いながら難しい顔をしている土方の表情が少し緩んでいるように見え、総悟は安心した。
◇
休憩所を後にしてしばらく園内を散策したところで、土方は喫煙所に向かった。 その近くのベンチに腰掛け、総悟は土方の戻りを待つ。
いつも店の部屋で二人きりで過ごすことがほとんどであることもあって、 こうして外の風景に溶け込む土方の姿を見るのは初めてだった。
先ほどから女人達がチラチラと土方に視線を送っている。やはり、こんな人を男前と言うのだろうか。 背も高く、体つきもしっかりとしていてあれだけ整った顔をしている土方を改めてこうして眺めていると、同じ武州の出身とは思えない。
梅に囲まれて煙草を吸う土方の姿は、凛々しかった。
総悟にとって土方は初めてまともに言葉を交わしたれっきとした侍であり、自分を対等に扱ってくれる存在だ。 ほのかに香る梅の中で、総悟は土方の立ち姿をじっと見つめていた。
すると土方も総悟の視線に気付いたようで、手にしていた煙草を灰皿に入れると総悟の方へ歩み出す。 じっと見つめていたことが知られてしまったようで、総悟は胸元をぎゅ、と押さえた。
「足、大丈夫か。疲れてねェか」
煙草のにおいをまとった土方が総悟の隣に腰掛ける。
「大丈夫でさ。武州にいるときは毎日何里も歩いてやしたし」
姉と一緒に街まで買い物に行った時、その姉が体調を崩してお医者様を呼びに行った時、そして短期間だけだったが道場に通っていた時――。 武州では毎日たくさん歩いていた。
「江戸に来てからどこかに出掛けたことなんてなかったから、今日は楽しい」
「そりゃあよかった。たまには外の空気吸いに行かねェとな」
かんざしでまとめられた総悟の髪を崩さないよう、土方はそっと総悟の頭を撫ぜた。
◇
梅園の近くで昼を済ませ、途中老舗の和菓子屋や最近オープンしたばかりの洋菓子店で買い物をした二人が店に戻ったのは夕方頃だった。
「総悟、着いたぞ」
土方に肩を揺らされ、助手席で眠りに落ちていた総悟の意識が浮上する。
「歩けるか?」
散策の疲れもあってか、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていたらしい。
「すいやせん」
慌てて車から降りようとすると、再び土方の手が総悟の腕を取った。
「うわ、」
土方の首に腕を回すように促され、そのまま総悟の体が宙に浮く。気付いたら体ごと土方に抱き上げられていた。
「自分で歩けやすって」
「いいから」
押し問答を続けているうちにあっという間に店の敷居を跨ぎ、土方が借り上げている部屋まで運ばれてしまった。
「お疲れさん」
畳の上にそっと体を降ろされる。
「あの、」
そのまま刀を解き文机に向かおうとする土方を総悟が引き止める。
「今日は、ありがとうございました……」
身を正して礼を述べる総悟を見て、土方がわずかに頬を緩ませる。
「なんてことはねェ。天気も良くて過ごしやすかったな」
「また……」
「ん?」
「また、どこかに遊びに行きてェ……」
今日は本当に楽しかった。 久しぶりに外の世界で自由に過ごせたことももちろんだが、何より土方の隣を歩けたことが心底嬉しかった。
「そうだな。また近いうちに遊びに行くか」
「約束ですぜ」
総悟の世界が、少しずつ変わりつつあった。