梅が香


Chapter 1 * 3. Tegami

仲見世通りに篝火が灯るのを、総悟は土方が借り上げた部屋の格子窓からぼんやりと眺めていた。

最後に土方がこの部屋を訪れてから、三日が経つ。 土方が姿を見せるのは、大抵は昼を過ぎてから。頻繁に訪ねてはくれるものの、いきなりふらっと現れる時もあれば、稀に短い文を寄越してわざわざ来ることを知らせることもあり、 土方が次に姿を見せるのはいつになるのか、総悟にもわからなかった。 先日はついに完成した法度とやらを局内に触れ回らなければならないと言っていたから、 もしかしたらしばらくはここで書き仕事をする暇はないのだろうか。

土方が数日姿を見せないと、必ず店の主人から文を出すようにと御達しが来る。 今回もまた筆を取らなければならないかもしれない――。 総悟は窓の障子を閉め、部屋の隅にある抽斗に仕舞ってある文の束を手に取った。 総悟は幾度も文を出しているが、土方からはほんの数回しか文をもらったことがない。 しかも短文で、ただ次に店に来る日取りが書かれているのみである。

それでも「沖田総悟様」と洗練された字で書かれた宛名を見るのが総悟は好きだった。 どこに奉公に出ても恥ずかしくないようにと、幼い頃に姉から施された手習いがまさかこんな店で役に立つとは夢にも思わなかったが。 先日土方の部下が届けてくれた文を手に取り、そこに書かれた自分の名前を総悟はそうっとなぞる。

この部屋に来ると、土方は数刻の間文机に向かいとにかくスラスラと筆を走らせている。 書き仕事の合間に、煙草の煙を吐き出しながら土方はよく自分が副局長を務める真選組の話をする。 自身がただ一人の大将だと仰ぐ局長のこと、武州にいた頃、道場でしのぎを削った仲間のこと、隊の編成に苦労している話――。 上京してからというもの、ほぼ今自分が住み込みで働いている茶屋以外の出来事を知らない総悟にとって、土方は唯一外の世界と自分とをつなぐ存在だった。

総悟は開いた文を丁寧に閉じた。まだ先日土方が置いていった菓子の残りがあったことを思い出し、茶でも入れてもらって一人で楽しもうかと考えた時、 襖の向こうから女中が呼ぶ声がした。

    ◇

空になった猪口に、総悟はなみなみと酒を注ぐ。猪口を持っている緑色の手には、指が四本しか付いておらず、爪が長い。 一体どこの星から来た天人なのか。

――今夜一階の奥座敷で宴会があるそうなんですが、どうしても人出が足りなくて。旦那様が総悟さんにどうしてもって。

土方にあの部屋ごと借りられている総悟は、滅多なことでは座敷に上がることはない。 しかし満面の笑みで上客達を迎え入れていた店主の様子から、今日の客はぜひとも捕まえておきたいということなのだろう。 一通り酒が回るまで付き合ってほしいという店主の頼みを断れるはずもなく、総悟は無表情で座敷に座っていた。

この店に来て間もない頃、総悟は同じく天人の宴会に駆り出されたことがあった。 笑顔を絶やすなと店主や店の兄さん連中に言われていたから仕方なく口角を上げていたものの、 どこか荒っぽい性分の客ばかりで不必要に体を触られた経験があり、それ以来特に天人の宴会では笑うことをしなくなった。

今日の連中も、威張っていて総悟のような陰間を見下している風なところが気に食わない。 徳利の酒が空になったところで潮時だと思い、一言お礼を述べてこの場を去ろうとした時――。

「まぁそう焦るな。もうちょっと相手をしてくれよ」

立ち上がろうとした総悟の腕が取られ、天人が総悟の肩を抱くようにして座り直した。

「本当に地球人は肌が白いな……しかもこの面ときた」

肩を抱いていた天人の腕が総悟の腰に巻きつき、さらに距離を縮められる。――これだから天人は嫌なのだ。 総悟はできるだけ嫌悪感をあらわにしないように努め、何も言い返さなかった。この手の客は無視をするに限る。

今すぐに手にしている徳利でこの無礼な天人を殴りつけたい衝動を抑え、顔を背ける。 すると先ほど猪口を持っていた緑の手が総悟の顎を掴み、無理やり視線を合わせようとした。

「……っ、触るんじゃねェ」

つい本心が口をついて出てしまい、総悟はハッとする。すると顎を掴んでいた天人の手が、総悟の襟を掴み引き下げた。 露わになった白い肌に、天人が唇を寄せて強く吸う。ぞくり、と寒気がし、総悟は顔をしかめた。 突き飛ばしてしまいそうな自分の腕を何とか押さえ込み、総悟は耐える。

天人は抵抗しない総悟に眼を細めると、無遠慮にさらに肌を吸ってきた。チクリ、と痛みが走り、総悟はきつく目を瞑る。 大人しくなった総悟に気を良くしたのか、天人は総悟の腰を撫で始める。 品定めをするかのようなぎらりと薄暗く光る天人の視線に途方にくれていると、 いつの間に現れたのか、総悟が天人に抱き込まれた拍子に畳に転がしてしまった徳利を拾い、女中が近付いてきた。

「まぁ総悟さん、せっかくご贔屓さんがお見えになっているのにこんな格好では……髪も乱れてますよ。さ、お召し替えしませんと」

女中は天人に恭しく一礼をすると、総悟を立たせて座敷の出口に向かう。

「副長さんがお見えですよ」

女中は総悟に耳打ちをすると、にっこりと笑った。

    ◇

「邪魔してるぜ」

宴会に出るために着ていた加賀友禅から、シャリのきいた白茶のお召しに着替えると総悟はいつもの部屋に向かった。 襖を開けたところで文机に向かう土方から声が掛けられる。部屋の中心にある長机には、デパートのものと思わしき紙袋が並んでいた。

いつもの光景に、総悟はどこか安堵する。

「土方さん、夕食は?」

「食ってきた」

サラサラと筆を走らせる音を聞きながら、総悟は紙袋の中を改める。 某有名和菓子店の芋羊羹、抹茶のロールケーキ、カステラの箱、チョコレートと思わしき大きな缶、焼き菓子、そして初めて土産として菓子をもらった頃から度々持ってきてくれるざらめ煎餅をはじめ、数々の品が入っていた。

今夜は突然の助っ人を頼まれたため、まともな夕飯をすませていなかった総悟は、まず煎餅に手を出した。程よい甘さのざらめが口に溶けて疲れが飛んでいくようだ。 女中に頼んで茶漬けでも頼もうと思っていた総悟だったが、煎餅に手を伸ばしているうちに少々腹が膨れてきた。 ついでに芋羊羹やチョコレートも腹に入れ、そろそろ茶を入れようといったん部屋を下がろうと立ち上がる。

ふと、総悟が奥の文机に向かう黒い背中を見ると、 相変わらず奥の文机に向かっている土方の周りには白いもやがかかっている。灰皿には煙草の吸い殻が山を作っていた。

総悟は何も言わずに文机の近くにある格子窓の障子を開ける。細い風が部屋に入り、少しずつ部屋の空気が入れ替わっていく。

「少し、休憩したらどうですかィ。茶、入れてもらってきやす」

「ん、そうだな」

ことり、と土方が筆を置く音を聞き総悟は部屋を出た。

    ◇

「……どうぞ」

仕事用の文机ではなく、総悟は長机に湯呑みと急須を準備する。 その様子を見た土方は、手にしていた煙草を灰皿に押し付けると長机に移動し総悟の真向かいに座った。

「……最近は、忙しいんで?」

「まぁな」

一言だけ述べて土方は茶をすする。おそらく、本当に忙しいのだろうと総悟は思った。 切れ長の瞳の下にあるクマが以前よりも濃くなっている気がする。

「差し入れ、いつもありがとうございます」

そういえばまだお礼を言っていなかった。食べ散らかした煎餅の空き箱を見て、土方の表情が緩む。

「相変わらずいい食いっぷりだな」

「今日は夕飯食い損ねたんで、ちょうどよかった」

「んだよ、先に言え。なんか頼むか? ちゃんとしたもん食わねェと大きくなれねェぞ」

緩んだ表情から一変、土方は眉根を寄せて総悟を見た。

「んー、あとで茶漬けでも食おうかなぁ」

まるで心配してくれているかのような土方の言動に、総悟はいつも不思議な感覚に陥る。 律儀に毎回袋いっぱいの菓子を届けてくれ、宴会で出くわす天人のように無遠慮に触れてくるわけでも見下してくるわけでもない。

――やっぱり、侍だからかねィ。

総悟は茶を一口すすると小さく息を吐いた。

しばらく他愛のない話をし、再び文机に向かった土方の後方で総悟は湯呑みと急須を盆に下げていた。 向かい側に座っていた土方が使用していた湯呑みを取ろうと腕を伸ばした時、チリリ、と胸元に痛みが走る。

「痛って……」

反射的に声を上げてしまい、総悟は襟を抑えた。

「どっか痛むのか?」

土方が振り返り、総悟をじっと見つめる。

「いえ、大丈夫です」

先程天人に吸い付かれた時、どうやら歯を立てられていたようで、少し傷になってしまっていた。 土方のいるこの部屋に入室する前、痕跡を隠すように別の着物をきっちりと着付けたのだが。

襟元をぎゅっと押さえている総悟の様子を見て、土方が筆を置き長机の方にやってくる。

「どこが痛い?」

「いえ、ちょっと襟の下が擦れちまって。すぐ治ると思うんで大丈夫です」

常に綺麗でいるように、と店主や兄さん連中から口を酸っぱくして言われているため、 総悟も肌に傷がつかないよう気をつけてはいたのだが、不本意ながら客から付けられた傷なのだから仕方がない。

「……薬、塗ってやる」

土方はそう言うと黒い上着の懐から小さな丸いケースを取り出した。 手のひらサイズのケースの蓋を開けると軟膏のようなものを長い指先ですくい取る。

「痛いところ、見せてみろ」

些細な傷なのだから、そこまで気を使ってくれなくてもいいのにと思いつつ、すでに土方の指に乗っている薬を無駄にするのも悪い気がした。 総悟は襦袢の襟ごと胸元を少し開けた。真っ赤になったいくつかの痕跡が現れる。

「痛いかもしれねェけど、我慢しろよ」

「へぇ」

土方の腕が総悟の背中にそっとまわされる。 やんわりと土方の大きな手が総悟の背中を押さえ、もう片方の土方の手が総悟の傷口に触れる。

「……」

ツンとする薬特有のにおいが総悟の鼻に届く。土方の指がゆっくりと動かされ、赤い痕跡を塗り薬が覆った。 昔、武州の道端で転び膝を擦りむいた時に同じように姉が手当をしてくれたことが総悟の頭をよぎる。

「この薬やるから、治るまで毎日塗っとけ」

一通り手当を終えると、土方はケースの蓋を閉めて総悟の手に持たせた。

「すいやせん……」

「こっちは傷が絶えない仕事なんでな。もしまた何か痛むところがあったら言えよ」

そう言って土方は総悟の頭を撫ぜた。

    ◇

――翌朝。

いつも通り部屋で朝食をとっていると、土方がおもむろに口を開いた。

「今度、どこかに出掛けねェか」

「え?」

予想していなかった言葉に、総悟は手にしていた箸を止めてまじまじと土方の表情を見る。

「温かくなってきたし、いつもこの部屋に篭りっきりってのもつまんねェだろ」

そう言って土方は沢庵に箸を伸ばす。

「でも俺、勝手に外出できねェし……」

「勝手じゃなくて、俺と一緒なら問題ねェだろ」

たしかに、土方はこの部屋を総悟ごと借り上げているため外出をしても咎められることはない。

「昼前に出掛けて出先で昼飯食って、夕飯前にここに戻ってくればいいんじゃねェか」

「いいんで……?」

「ついでに菓子も買いに行くか。たまにはお前が自分で選べよ」

会話の合間に、土方は黙々と箸を進める。

「へぇ」

出掛ける――普段では考えられないことを提案してくる土方は、やはり不思議な人だと総悟は思った。

「行きたいところが決まったら、文で知らせてくれ」

その後いつも通り土方の身支度を手伝い、店先で見送った総悟だったが、頭の中ではずっと行き先について考えていた。 部屋に戻ると、総悟は長机の前の座布団に座り、考えを巡らす。 同じ店の他の陰間が贔屓の客と同伴をしたり、外に出かけていくことは確かにあった。 皆どこに行っているのか、今まで意識をしたことはなかったが。 格子窓をぼんやりと眺めていると、数か月前まで病に臥せっていた姉が病室の窓を見つめながら呟いていた一言を思い出した。

――寒さが和らいでくると、梅の季節ね。もう、春なのね。

容体が安定せず、外出が難しかった姉のため、その時総悟は梅の枝を切ってもらい病室の花瓶に飾った。

そういえば、この茶屋の近くには天神様の社があって、この時分になると梅が見事に咲くのだといつだったか聞いたことがある。 江戸には他にも梅の名所と呼ばれるところがあるらしいということも。

総悟は筆と紙を用意すると、早速考えを文字にする。 思いつくがまま、土方宛の文をしたためると女中にその文を託した。 土方がこの部屋に現れると、どうしても武州のことを思い出してしまう。 長机の横にごろりと寝転がった総悟は、しばらく瞳を閉じてじっとしていた。 くるりと寝返りを打つように横を向くと、壁の刀掛けにある一振りが目に入る。

それは少し前に土方が置いていった脇差だった。 総悟はゆっくりと立ち上がると、壁掛けから脇差を取る。 昔総悟が武州で道場に通っていた頃、筋が良いと幾度も塾頭に褒められた。 真剣は扱ったことはないが、久しぶりに剣を振ってみたくなりそっと剣を抜く。

刀身がキラリと光る。総悟に刀の善し悪しはわからないが、直感的に切れそうだと思った。 鞘を畳に置くと、昔習ったように構えてみる。

平正眼の構えから、一気に踏み込み相手を突くーー突きは、かわされると切り返すのが難しく危険な技だ。 しかし総悟は持ち前の身体能力と身軽さで隙のない突きを繰り出すのが好きだった。

脇差を構え、畳の床で一気に踏み込む。鈍い足音が響き、総悟が振る脇差が空を切った。