[R]
「ちょっとここで待ってろ」
土方に連れられて病室を出ると、総悟は受付の近くにある椅子に腰掛けた。受付のカウンターで退院の手続きをする土方の背をぼんやりと眺めながら、総悟は姉を看取った時のことを思い出していた。
誰もいない病室で次第に呼吸が弱まっていく姉の細い手を取り、必死に幾度も姉上、と呼びかけた。
――そーちゃん、ありがとう。
息を引き取る間際、意識が混濁していはずの姉の瞼が開き、美しい緋色の目が一瞬自分を見つめた。ありがとうと言うべきなのは、自分の方なのに――。その一言が総悟に届いた途端、姉の手から力が抜け瞼は閉じられていた。
その時から、総悟は天涯孤独の身になってしまった。総悟に残されたただ一つの生きる意味は、年季が開けるまで陰間としてあの茶屋で働くことだけ。
それが、あの寒い冬の日に突然現れた真選組の副長のせいで全てが変わってしまった。
「大丈夫か? まだ、どこか痛むか?」
いつの間に受付を終えたのか、椅子に腰掛ける総悟の前に土方が跪き、心配そうに総悟を見つめた。
「大丈夫でさァ」
「……しばらくは座敷に上がったりしねェでゆっくりしてろ。店主にも言っておく」
「昨日検査してもらって、どこも悪いところはありやせんでしたし……俺ァ健康だけが取り柄なんで」
総悟がにこりと笑うと、土方も安堵の表情を見せる。
「まぁ、無理はすんなよ」
総悟の目の前に、土方の大きな手が差し出された。
「行くぞ。車で茶屋まで送る」
「へィ」
総悟が土方の手を取り、椅子から立ち上がる。
――あったけェ……。
土方の大きな掌と節くれだった指の感触が、心地よい。総悟は顔を上げて隣を歩く土方の表情を見た。まっすぐ前を見据える鋭い目線は相変わらずだ。この人は、その先に何を思い描いているのだろうか。
総悟は目を伏せ、倉庫で近藤を守るために真剣を握った時の感覚を思い出した。刀の重みや柄に巻かれた糸の感触、対峙する相手の息遣い、そしてあの時己の中に生まれた闘争心――。
陰間の身では、土方のように刀一本で生き抜いていくことは叶わない。それでも、できるだけこの人の側に身を置きたいと思ってしまう。
病院の入り口のアーケードに止まっていた一台の車の前で、総悟の手を握っていた土方の手が離れた。後部座席のドアが開けられ、奥に座るように促される。土方も続いて総悟の隣に座ると、運転席から声が掛けられた。
「沖田さん、退院おめでとうございます」
ひょっこり顔を出したのは、監察の山崎だった。
「茶屋まで頼むぞ」
「はい」
最後に病室で見た山崎は、何やら顔を真っ赤にして慌てふためいているようだったが今日は落ち着いているようだ。
車がゆっくりと動き出す。
「あの、もしよければなんですが……」
総悟がぼんやりと移り変わる風景を眺めていると、前を向いたまま山崎の声が車内に響いた。
「ちょうど昨日から四越デパートで北海道物産展がはじまったようですよ。足を運んでみては?」
北海道という言葉を聞いて、総悟はレーズンバターの風味や口の中でとろけるチョコレートの食感を思い出していた。以前土方に差し入れてもらった菓子の中でも、北海道の洋菓子は特別美味しかった。
「……」
左側に座る土方の横顔を総悟はそっと伺う。腕を組んでじっと前を見つめる土方の表情は変わらない。
「……行くか?」
総悟の視線に気が付いたのか、土方が低い声で訪ねた。
「へィ」
総悟が微笑むと、亜麻色の髪を土方の細長い指が梳いた。
バックミラー越しに二人のやり取りを見ていた山崎が、ウィンカーを点灯させて右折レーンに入る。そのままデパートがある大通りに向かった。
◇
「無事に戻られて何よりです」
茶屋のいつもの部屋の長机でチョコレートを口で溶かす総悟の前に、女中が湯呑みを並べる。
「へェ、心配掛けてすいやせんでした」
女中が安心したように盆を胸に当て、ほっと息をついた。
「副長さんの分のお茶も、こちらに」
文机で筆を走らせる土方の背中をちらりと見やると、女中が一礼して部屋を去ってゆく。
いつもの部屋で、二人きり。
いつも通り総悟は菓子を食べながら土方が書き仕事をするのを眺める。つい数日前、不逞の輩に拐かされたのが嘘のように静かな時間が流れている。また、以前のような日々が続くのだろうか。土方は変わらず自分を訪ねてきてくれるだろうか。
日常に戻ると、ふとした瞬間にこうして不安になる時がある――。
総悟がチョコレートの箱に再び手を伸ばしたところで、文机から筆が置かれる音がした。
「総悟」
煙草を指に挟んだ土方が振り返る。
「はい」
総悟は伸ばしかけていた手を引っ込めて土方の方を向いた。ライターがカチリと音を立てて、あっという間に煙草に火が付けられる。煙の筋が土方を包み込んだ。
「突然で悪いんだが、明日、真選組の屯所に来て欲しい。先日の件について、改めてきちんと話を聞きたい。」
「じじょう、ちょうしゅ……、ってやつですかィ?」
入院した日に、山崎からも同じようなことを尋ねられた。
「まぁ、そんなとこだ。……思い出したくねェこともあるかもしれないが」
土方の目が、悲しげに伏せられる。
「俺も、立ち会うから」
土方の視線が再び総悟を捉えた。
「へェ。それは構いやせんけど……」
拐かしの件について、土方は相当責任を感じているようだった。あの時総悟が囚われていた倉庫に踏み込んだのは近藤だったが、土方も別働隊を率いて一帯の倉庫群をしらみつぶしに改めていたと山崎から聞いている。
怖くなかった、といえば嘘になる。体の自由を奪われて見知らぬ輩に肌を触られた時の嫌な感触は、数日経った今でもふと思い出してしまうことがある。
しかし、結果として真選組に助けてもらうことができた。土方がこの茶屋に出入りをしていなかったら、それこそ自分は今頃他の星に売り飛ばされてしまっていたかもしれない。
総悟は菓子や茶が並ぶ長机から離れると、紫煙を吐く土方の目の前に正座した。
「土方さん」
「ん?」
土方が手にしていた煙草を灰皿に押し付けて、総悟の目を見た。
「今回は、ありがとうございやした。助けてくれて。真選組が動いてくれなかったら、俺ァ今頃どうなっていたことか、想像もつきやせん」
総悟が、手をついて頭を下げる。
「いや、俺たちは警察としての使命を全うしただけだ。むしろ、近藤さんからお前に間一髪のところを助けられたと聞いている。礼を言わなきゃいけねェのはこっちかもしれねェな」
畳に置かれた総悟の手に、土方の手が重ねられた。頭を上げるように促されると、正面を向いた総悟の額に土方の唇が落ちる。
総悟の白く滑らかな頰を、土方の両手が包み込んだ。
「本当に、無事でよかった……」
低く掠れた声とともに、土方の指が総悟の桜色の唇に優しく触れる。その柔らかな感触を楽しむかのように指が滑っていった。
「総悟……」
再び名を呼ばれ、正座をしていた総悟は腰を上げると両腕を土方の首に巻きつけた。土方の手が総悟の背と頭に回され、二人の唇が重なる。
ぴちゃぴちゃと音を立てながら絡みついてくる土方の舌の動きに応えようと、総悟も必死に舌を動かす。息継ぎの合間も惜しむような激しい口付けに、総悟は甘い快感のしびれに酔った。
「はぁ……」
酸欠で頭が真っ白になりかけたところでようやく土方の唇が離れてゆく。
「そーご」
土方の手が総悟の着物の襟を乱し、白い肌に直接触れた。
――気持ちい……。
こうしてただ肌をさわられているだけなのに、どうしようもなく気持ちがいい。もっともっと触れてほしくて、総悟は胸元をまさぐる土方の手に自分の手を重ねる。
「痕、まだ残ってんのな……」
胸元の赤く腫れ上がった痕跡を、土方の指がなぞっていた。
「んー、まぁまぁキツめに縛られちまって……」
縄の跡をツーと指先でさわられて、総悟の胸の敏感な部分がきゅ、と捻られる。
「ん……」
鼻にかかったような声が総悟の口から漏れた。少し触れられただけで完全に芯が通ってしまった総悟の胸元に、土方が唇を寄せる。熱い舌が伸びて胸の粒を押しつぶすように刺激されると総悟の腰が揺れた。
「あ……ん……」
突然土方が歯を立てて粒を愛撫すると、総悟の腰が崩れ落ちそうになる。土方の手が総悟の腰をとっさに支えた。
「もぅ、きちゃう……気持ちいの……」
総悟の胸元にもう一度噛み付き、土方が愉しそうに笑った。
「イけよ……」
土方の手が再び総悟の頭と背に回り、小さな体が畳に倒される。襟元を大きく開かれたと思ったら、土方の唇と指が、総悟の胸を弄った。
総悟の胸の先端の付け根を土方の舌が執拗に舐め取る。もう片方の粒は指つま先で引っ掻くようにして刺激された。
「ん、んぅ……や、だ……」
胸への刺激で得られる快感が、そのまま総悟の中心に集まり始める。朦朧とする意識の中で、総悟は必死に着物の裾を伸ばして膨張してゆく欲望を隠そうとした。
「ぁ、あ、ぁ……ッ………!」
胸の粒に痛みにも似た強い衝撃が走り、総悟はあっけなく極まった。相変わらず、下は濡れていない。
射精を伴わない快感にさらわれ、ぐったりとしている総悟の着物の襟が、なぜか土方の手によって整えられてゆく。
「ひじ、かた、さん……?」
いつもであれば、もっと襟を広げられて全身を愛撫してくれるのに。総悟は不思議に思って土方に手を伸ばした。
「……ひじかた、さんも……気持ちよくなってくだせェ」
客をないがしろにして、自分だけが気持ちよくなる訳にはいかない。総悟は自ら脚を開いた。
「退院したばっかりの奴に無理させる訳にはいかねェだろ」
いつもであれば、土方のいきり勃った欲望を埋め込まれるのだが――。
伸ばした手は畳に戻され、開いた脚は閉じられてしまう。
「おっぱい舐めたのに……?」
「それは関係ねェ」
解けていた帯が土方によって締め直され、畳に横たわっていた総悟の体が抱え上げられてしまった。
「今日は俺もここに泊まる。明日は早ェから、今日は飯食ったらさっさと寝るぞ」
「へーぃ……」
この日の夜、総悟は土方に抱きしめられながら同じ布団で眠った。土方の胸元にぴたりと寄り添い、瞳を閉じかけたところでおもむろに土方が総悟の手を握る。
「お前、昔剣を習ってた、って言ってたよな……?」
「え」
うとうとしながら、予想もしていなかった質問に総悟は頭を上げて土方を見つめた。総悟の閉じかけた瞼に土方の唇が落とされる。
「武州の家からちょっと離れたところにあった道場で……。姉上が俺のために見つけてくれて、少しだけ習ってやした」
落とされる口付けに、総悟はうっとりと瞼を閉じて言葉を続ける。
「でも道場に通い始めたころから、姉上の病気が悪化しちまって……そしたら門下生が減っちまったとかで、道場も閉まっちまいました」
「姉貴は、どうしてる?」
「……」
土方が自分の身の上を聞くことを不思議に思いつつも、総悟は大好きだった姉を思い浮かべた。
「ちょっと前に亡くなりやした。生まれつき、肺が悪くて」
「そうか……」
総悟の背中に回されていた土方の腕に、力が込められる。二人の体がさらに密着した。
「お前、他に身寄りは?」
「俺が赤ん坊の頃に両親が死んじまって、それからは姉上が俺の親代わりでした。頼れる人は、もういやせん」
こうして身の上話をするのは、久しぶりだ。しかし、茶屋で働く陰間には自分のような境遇の者も少なくはない。土方にとっても特に珍しい話ではないだろう。
それ以上、土方が総悟に質問をすることはなかった。背中に回された大きな手にあやされるようにして、総悟は眠りについた。
◇
「わぁ、すげェ」
翌朝、総悟は再び山崎の運転する車に乗り真選組の屯所を訪れていた。広大な敷地と立派な門構えに、総悟は思わず声を漏らす。
「総悟」
先を歩く土方が門の前で手招きをした。
「あ、すいやせん」
総悟が慌てて土方の後に続き門をくぐる。
警察の、しかも真選組の屯所と聞いていたため物々しい雰囲気の場所であるというイメージを抱いていた。しかし、敷地内には木々も多く想像していたよりも静かで落ち着いた場所のようだ。
「とりあえず、まずは俺の部屋に行くぞ」
「へィ」
屯所内の廊下で時折すれ違う隊士たちが、土方の姿を見て一礼をしていく。土方は片手を上げてそれに応えていった。
「……土方さんって、本当に偉い人だったんですねぃ」
先を歩く土方の背中に向かって総悟が呟く。
「そうでもねェよ……」
土方が歩くスピードを緩めて振り返った。
「最近は知名度も上がってきたとはいえ、いかんせん、発足して日の浅い組織なんでな。まだまだ隊士の数も足りねェし、外部とのつながりも薄い」
「はぁ……」
難しいことはわからないが、土方が茶屋のあの部屋でいつも忙しなく筆を走らせているのをよく見ている総悟には、それが真選組の現状なのだということが伝わってきた。
しばらく建物の中を歩いていくと、土方がとある部屋の前で立ち止まる。
「ここが副長室だ」
土方が障子を開け、総悟を先に入室させた。
部屋に入った途端、ほのかに煙草の匂いが香った。一人で過ごすには十分な広さがあるその部屋には、茶屋と同様文机が置かれている。
「……」
茶屋で自分と過ごしている以外の時間を土方がここで過ごしていると思うと、総悟はなぜだか不思議な気分になった。
ふと、文机の端に紙の束が積まれているのが総悟の目に留まった。総悟は部屋の奥に入り、その紙の束をじっと見つめる。
「あ……」
そこにあったのは、「土方十四郎さま」と書かれた文の束だった。その手跡は、総悟自身のもの――。
自分も土方からもらった文を度々読み返していた。土方も、同じだったのだろうか。じわり、と温かいものが総悟の心の中に広がっていった。
「ま、適当に座ってくれ」
「へィ」
土方が部屋の中心に用意してくれた座布団に総悟が座ると、土方が向き合うようにしてどかりを腰を下ろす。
「……先日の拐かしの件については、この紙にざっと内容をまとめてある」
総悟は土方から一枚の白い紙を受け取った。
「もし、そこに書いてあることで事実と異なることがあったら教えてくれ」
そこには、土方の手跡で今回の事件のあらましが書かれていた。一文一文を、総悟は丁寧に読み解いてゆく。昨日、茶屋で土方がしたためていたのはこの文書だったのかもしれない。多忙の土方が、自分が不運にも巻き込まれてしまった事件に対して真摯に向き合ってくれているように感じられた。
「俺も突然眠らされて、気がついたら倉庫にいたんで、分かることは限られてやすけど……大体このとおりだと思いやす」
総悟は土方に紙を差し出した。
「ん、そうか……」
土方は紙を受け取ると、文机の上にそっと置いた。
「もしかして、これで終わりですかィ……? じじょう、ちょうしゅ」
「あぁ。そもそもお前は連れ去られた側だし、犯人も捕縛できている事件だからな」
「はぁ……なんか、もっと厳しく問い詰められるのかとばっかり思ってやした」
総悟がきょとんとした表情で、なぜか残念そうに言った。
「事件に巻き込まれたお前にそんなに厳しく問い詰める訳ねェだろ……」
そういうものか、と総悟が納得して頷くと、土方の腕が伸び総悟の亜麻色の頭を撫ぜた。
総悟がほっと一息をついたところで、再び土方が口を開く。
「実は、お前にもう一つ大事な話がある」
「え?」
総悟は首をかしげて土方の切れ長の目を思わず見上げた。
「……局長室に、来てくれるか? もちろん、俺も一緒に行く」
局長室――。それは、あの近藤勲と話をするということなのだろう。
暗い倉庫の中で太陽のように明るい近藤の笑顔を見た途端、とても安心したことは強く印象に残っている。
「へぇ。土方さんが一緒なら、安心でさぁ」
何より、再び近藤に会えることを嬉しく感じた。総悟は大きく頷くと土方の後に続いて局長室に向かった。
◇
「おぅ、元気そうだな!」
想像していたよりも何倍も明るい表情で近藤に笑いかけられて、総悟にも自然に笑みが生まれた。
「へぇ。おかげさまで……あの時は、助けてくれてありがとうございました」
局長室の座布団に正座をした総悟は、目の前であぐらをかく近藤に頭を下げる。総悟の隣に腰を下ろした土方がその様子を見つめていた。
「礼を言うのはこっちの方だ。俺もお前に助けられた」
近藤も深々と頭を下げる。それを見た総悟が、慌てた様子で近藤に面を上げるように促した。
「そんな……今思えば、俺が助けに入らなくても、近藤さんならあの程度の輩なんて敵じゃなかったんじゃないかと……」
これは、謙遜でもなく総悟の本心から出た言葉だった。とっさの判断であの時刀を握ったが、きっと近藤ほどの腕の持ち主であれば相手の動きを読み切っていたに違いない。
「いやぁ、お前のあの突きには驚いた。大したもんだ。一朝一夕で身につく技じゃねェ」
確かに昔道場に通っていた頃から突きは得意だった。まさかダイエットのために茶屋の一室で脇差を振って練習していたとは言えず、総悟は適当に誤魔化した。
「どうだ総悟」
突然近藤に名前を呼ばれて、総悟の瞳が人懐っこい笑みを浮かべる近藤の優しい目と合わさった。
「お前の剣は、磨けば磨くほどもっともっと強くなる。江戸の治安を守るために、その力を俺たちに貸してくれねェか」
「へ……?」
総悟の緋色の瞳が、驚きのあまりこれ以上ないほどに大きく見開かれた。予期しない出来事に思考が停止してしまったのか、うんともすんとも言わなくなってしまった総悟に隣で様子を伺っていた土方が声を掛ける。
「……総悟、真選組に来ねェか。お前は陰間茶屋に置いておくには惜しい人材だ」
「あ……でも、俺、年季奉公だし……」
姉の入院や治療費用で、店には膨大な金額を前借りしている。その金を返さずして、茶屋から出ていくことはできない。
「そこも問題はねェ。近藤さんと俺で、お前を身請けする」
「へ……?」
身請け、という思いもしなかった言葉を耳にし再び総悟の真ん丸の瞳がこれでもかと見開かれる。
「実は、もう店主とも話を進めている」
今度は正面に座る近藤が、総悟に白い紙を差し出してきた。
総悟がその紙の内容を改めると、近藤のものであろう、堂々とした手跡で自身の名前や身請けという文字、そして近藤や土方らの名前が並んでいた。
「茶屋のことは、心配いらねェ。あとは、お前の心次第だ」
先ほどよりも鋭さを増した近藤の瞳が、総悟を見つめる。
「今すぐ決めろとは言わねェ。しかし、前向きに考えて欲しい。近い将来、間違いなく真選組がお前の剣の腕を必要とする時が来る」
近藤のその言葉に、総悟の顔がパッと上がった。亡くなった姉が、自分のためにとわざわざ見つけてきてくれた道場で身に付けた剣の力が役に立つのなら、それ以上のことはない。
なんという巡り合わせだろう――。隣に腰を下ろすと土方にそっと視線を送ると、土方がいつもの鋭い表情でそっと頷いたように見えた。
「近藤さん」
総悟は改めて姿勢を正すと、まっすぐ正面を見据えた。
「近藤さんから直々にお誘いを受けるだなんて、身に余る光栄でさァ……俺ァ、このまま江戸で陰間として一生を終える覚悟でいやしたが……」
総悟の緋色の瞳が、じりじりと熱を帯びて煌めいてゆく。
「この身がお役に立てるのであれば、迷いは一切ありやせん。今回の話、謹んでお受けしたいと思いやす」
そう言って頭を下げようとした総悟の肩に、近藤の大きな角ばった両手が乗せられた。
「本当か!?」
バシバシと大きな音を立てて、近藤の両手が総悟の肩を叩く。
「わ、」
子どものようにはしゃぎ喜ぶ近藤の様子を目で追っていると、突如総悟の体がふわりと浮く。立ち上がった近藤に、体を抱え上げられていた。
「総悟。これから、よろしく頼むな!」
「……へぃ」
太陽のように明るく笑う近藤の笑顔に応えるように、総悟も優しく微笑んだ。
◇
「寂しく、なりますわね……」
茶屋のいつもの部屋で、女中が前掛けで涙を拭った。
「本当に、何から何までお世話になりやした」
総悟は女中の目の前に立ち、寂しげな笑みを浮かべる。
「……たまには遊びに来てくださってかまいませんからね。美味しいお菓子を用意しておきますから」
「へぃ。土方さんも、引き続きこの茶屋とは契約を続けるみたいだし、また近いうち会いに来れると思いやす」
総悟は懐から新品の手ぬぐいを取り出すと、涙で溢れる女中の顔をそっと拭った。そのまま手ぬぐいを女中に渡すと、総悟は簡単にまとめた荷物を手にする。
部屋で佇む女中に一礼をすると、静かに部屋を出た。
そのまま階段を降りて面の玄関に向かうと、そこには隊服に身を包んだ土方と店主が立っていた。
「……旦那様」
総悟は玄関に荷物を置くと、店主の前で深々と頭を下げた。
「お世話になりやした。旦那様のご恩は一生忘れやせん」
厳しく接せられたことも多かったが、思えば自身の我儘をよく聞いてくれた。いい水下げ客が見つかった、とあの時嬉々として店主が総悟の部屋を訪れた時から、全てが始まったと言ってもいい。
「いいお客様と巡り会えて何よりだ。あちらでも、頑張るように」
「へぃ」
総悟がゆっくりと面を上げると、隣に立っていた土方がゆっくりと近づいてきた。玄関に置かれた荷物を手にすると、土方の腕がやんわりと総悟の肩を抱く。
「総悟、そろそろ」
先ほどまで一服していたのだろう、濃い煙草のにおいがする。総悟は大きく頷くと、再び店主に向かって深々とお辞儀をした。
そして、土方に促されゆっくりと体を反転させる。
「総悟」
一歩先に立つ土方が、総悟に向かって手を差し伸べた。総悟は迷わずその手を握ると、店の敷居を跨いで外の世界に降り立つ。
「行くぞ」
「へィ」
恋い慕う黒い背中を眺めながら、総悟は真選組の一員として歩む自分と土方のこれからを思い描く。その凛とした緋色の瞳は、期待と希望に満ちていた。
[End.]
連載期間:2022年1月9日〜7月24日
拙い部分も多い中、お読みいただき誠にありがとうございました。
『梅が香』の連載はこれで終わりますが、その続きである『飛信子(ヒヤシンス)香』に続きます。